※語りなのか創作なのか判断できない文章。あえていうなら孟徳へのラブレター
曹孟徳が、果たして最初から傑物だったかどうかは定かではない。
堅実な家柄で育ち、つるむ仲間や友人に恵まれ、将来を憂う事ない若者だったろう。
物腰は軽妙、弁も立つ。機知に富んだ才覚は、すでに他者とは違うきらめきを放っていたに違いないが、国の頂点に立つほどの芽はなかったかもしれない。
彼を、乱世の奸雄たらしめたものは何か。
有能な臣として国を支える人材、で終わることなく、血塗られた道へと突き動かしたのは何か。
多くの者から崇められ、畏怖され、化け物のように囁かれる男へと押し上げたのは何か。
恐らく、命を落としかけ、皮膚を焦がすに至った悪夢のような“裏切り” だろう。
争いも権力も野心もない世界ならば、友は普通、裏切らない。刃を向けることはない。
だが孟徳が生きるのは、謀や造言、寝返りが渦巻く世界だ。簡単に寝首をかかれ、足場から蹴落とされる。
身に降りかかった無情な現実に、孟徳は絶望しなかった。悲嘆にくれることもなかった。
いや確かに絶望も嘆きも心臓を貫いただろうが、それらを全て巻き込んだ唸りのような感情が、一人の男を覆い尽くして呑みこんだ。
許さない。
全身を支配したのは、とてつもない憤り。
心を歪ませ、取り巻く何もかもが炎にまかれて剥がれて落ちる。足元は崩れ、世界は彼に向って唾を吐いたのに、顔は笑みの形を作っていた。
信頼は毒だ。信用は脅威だ。心を許し扉を開け放てば、牙を剥かれて死に至る。
そう、無残で無様でみじめな、今の有様のように。
二度はない。これで終わりとする。これを最後とする。
「何人たりとも俺を裏切ることは許さん。この天の下、何者にも金輪際欺かれることはない」
男は呪文を唱え、魔法をかけた。
とびきり強烈でがんじがらめになる、悪い魔法をかけた。
その日、曹孟徳が産声を上げた。
孟徳にとって不幸だったのは、彼がどこまでも正気だったということだ。
狂い、病んだなら、自我を見失う。哀れではあるが、眼前の事実から逃げ、目をふさぐこともできよう。
けれど孟徳は、目隠しをしなかった。
もともと長けていた観察眼にいよいよ磨きをかけ、痛ましいほど冴えさせた。
人の感情の機微に敏感という域を超えて、内面さえも知れるようになった。
西洋の神話に、パンドラの箱という話がある。
あらゆる厄災を閉じ込めた、神から愚かな人類への贈り物。
開いた瞬間、病や悪意が世界にばらまかれ、慌てて蓋を閉じた箱には「希望」が残るという話だ。
パンドラがかろうじて封じたおかげで、人類が免れた最後の厄災とは何か?
答えは「未来を知る力」。
一見素晴らしい能力に思えるが、とんでもない。予知は恐ろしい罰でしかない。
いくら見えていても、確定した宿命は変えられない。自らを待ち受ける不運や出来事や死に際を、全て見通せてしまったなら、絶望して歩く足を止めるだろう。
逆を言えば、あらゆる災いが蔓延しても、何も見えないなら人は希望を後生大事に抱えて生きていける。
魔法のかかった孟徳は、人の嘘が見抜ける。偽りを看破できる。
それは、常に脅かされる彼の命を守ったことだろう。
反比例して、心は摩耗していっただろう。
権力を握れば握るほど、敵は増え、腹にたくらみを隠してすり寄って来る輩は後を絶たない。
武に長けた将、才のある参謀、美しい女、食えない使者。
おびただしい数の嘘が、孟徳の目の前にさらけ出される。
わからなければ、知らなければ、希望を失わず生きていける。
人の嘘を察し、邪心を透視する孟徳は、他者には見えない多くのことがわかる。
孟徳の「希望」は、燃えカスのように散り散りになって、手からこぼれていった。
もうきっと、形も思い出せない。
権力者として、孟徳の魔法は大いに役立つものだ。
端から信用しなければ、危ない橋は渡らずに済む。覇道に落とし穴はいらない。
だが一人の男としては、人を信じない魔法は幸いを遠ざけるだろう。
人は愛すれば、相手のすべてを欲しくなる生き物だ。
当然、彼を愛した星の数ほどの女――妻も、愛妾たちも、孟徳の心を欲しがったに違いない。信を得られない空しさを嘆き、傷つき、魔法を解こうと手を伸ばしたに違いない。
しかし呪いは根が深い。
この世に流布するおとぎ話のように、誰かからかけられた魔法ならば、愛の口づけでとけたかもしれないが、呪文を唱えたのは他でもない孟徳自身だ。
死の炎をくぐり、手のひらと脳に刻まれた呪いは、とけるどころか毒の沼のように触れた相手を引きずり込む。底のない沼は、暗くて出口がない。
孟徳は人を信じない。だが女を愛することはできる。
否、できる、という範疇ではない。玄徳軍にまで届くほどの色好みだ。
見た目、物腰、才能、話術、少しでも食指が動こうものなら、手管や地位や財産を余すことなく使い、たらしこんで取り込んでしまう。空腹を満たすように、空いた穴をふさぐように。
そして隅々まで食らいつくして、空っぽにして懐へ入れてしまったなら、彼の恋は終わる。
正妻曰く“都合がよく彼が望まない”存在が、後宮に一人増えるだけ。
彼が望むのは、彼が食い尽しきれない相手だ。彼の意のままにならず、彼の心を弾ませ、彼につかまらない存在だ。
しかし孟徳という男は、欲しいものを手に入れるのが巧い。
嘘を見抜くばかりではなく、何をどうすれば獲物が檻の中に入るかも、よく知っていた。
孟徳の気を引いていた羽は、みんな綺麗なままむしられて鳥かごへ。飛び立つ術もなく、うつろな声でさえずり続ける。
後宮で暮らす女たちは、例えるなら愛の標本。
美しく良い眺めだけれど、孟徳を救わない。孟徳も、彼女達に心をくれてやらない。
覇王の道は茨の道。
大勢にかしずかれながら、供もなく一人。
頭を垂れ、恭順を示すものは群れを成し後に続くが、隣を歩く者はない。
すでに自分の一部と化した魔法を、果たして彼はどう思っていたのだろう。
苦しんでいたのか、解きたいと思っていたのか、それとも魔法にかかっていることも忘れてしまっていたのか。
寝返り裏切り埋伏暗殺。
何度となく起き、その都度未然に防いだ孟徳は、眉一つ動かさず首謀者を一族郎党始末した。
“丞相”として振る舞う時間が主となり、濃くなっていく。
伴って、対である“曹孟徳”個人の輪郭はぼやけていく。
逆賊、簒奪者、悪鬼、と囁かれ続けて、治める領地は広がっていく。
王朝の威光をかさに着た孟徳の悪名は尊大に膨らみ、今や知らぬ者はない。
死体を築き、血の川を漕いで、道を往く。
彼が肩書を下ろして背後を振り返るのは、夢をみる時くらいだろう。
丞相は血の凍った変革者でも、曹孟徳は血の通った人間だ。
喜怒哀楽の内、欠落した何かをふと取り出して、懐かしむ夜もあったかもしれない。
気まぐれで撫でてみても、感触は他人事のように遠い。
魔法は彼を覇者へと育て、乾いた孤独の冠を与えた。
川で拾いあげた軍師も、きっと孟徳にとっては珍しい小鳥の一羽にすぎなかったろう。
幾度か戦場で孟徳軍を苦しめた、変わった身なりの、変わった女の子。興味を引いてくれと言わんばかりの恰好の餌だ。
眉一つ動かさず火を放つ冷酷な指導者と、目の輝きを隠せない子どもじみた好奇心。
異国の娘は、二面性を持つ孟徳の、後者の性質をよく刺激した。
物慣れない所作が、幼い正直さが、色眼鏡のない自分への眼差しが。
それどれもが孟徳には新鮮で未知で、わくわくとさせた。
可愛い面白い知らない知りたいそばに置きたい。
数知れぬ女たちにそうしてきたように、ごく自然と孟徳は感じたに違いない。
書簡とも違う、不思議な書物という持ち物に惹かれないでもなかったが、孟徳の価値感では、人と比べて物の値打ちはどうしても下がる。物が優れているのは、人が優れているからだ。生み出す才と技の産物だからだ。
孟徳は人を信じないが、憎んではいない。
人が持つ、無限の可能性を高く買う。だから、その内の一つ騙し欺くという可能性を、決して忘れない。
物でしかない書物を寄越すように要求したのは、彼女が大事にすがりついていたから。
孟徳は欲しいものを手に入れる術を心得ている。最初の一手として、警戒の薄い娘に足枷をはめるなんて、お手のものだった。
花と名乗った娘は初心で奇妙で、取り立てて賢くはないが愚鈍でもなかった。何より素直だった。
口の利き方や物腰は、高貴な出自とはかけ離れている。そのくせ、贅沢品である茶を白湯みたいにありがたみもなく飲む。輿入れしていてもおかしくない年頃にもかかわらず、口説かれることに免疫がないのか、迫れば焦り、押せば引くけれど、ねだれば弱りながら頷いてくれる。バランスが崩れていて面白い。
伏龍の弟子の肩書が気を悪くするくらい、隠し事も下手だった。
書物にかかれているのが寓話じゃないことくらい、孟徳にかかれば暴くのはたやすい。それでも黙っていたのは、一生懸命取り繕う姿が健気で愛らしかったから。いちいち誠実に困ってくれるから。
反応を見たくて、孟徳は時々わざと意地悪なことをたずねた。そうすると、彼女は嘘をついた。真剣な顔で、うんうんと悩みながら、ふきだしてしまうような拙い嘘を必死で吐いた。
かわいい嘘だ。かすり傷にさえならない。悪意も害意もない。
孟徳は沢山の嘘をみてきた。
権力が集まる政の中枢は、姦計が絡み合う魑魅魍魎の巣だ。
鼻で笑う安い嘘もあれば、見過ごすには物騒な嘘もあった。
もはやそれらは、孟徳にとって風景の一部。雑草を刈り取るように、目に余れば処分する。
愛くるしい娘も誠実な部下も、人である限り、いつか失った友のように、喉元に刃をつきつけるかもしれない。
だから備える。相手が反旗を翻した時に、相応の始末をつけられるように。
よくよく言動を注意して、警戒の檻に入れておけば、殺意は我が身を脅かさない。
過去の愚行をあざ笑う火傷が、孟徳に囁く。
もう二度と――
「じゃあ繋いでいれば見えなくていいですね」
火傷の痕ごと握った娘が言った。
握られたのは単なる手。けれど、孟徳は胸までぎゅっと握られた心地がしただろう。
座っただけで女官が競うように酌をしたがる男だ。
雌が雄を誘う文句は、はねた首と同じくらい沢山聞いてきた。恋い慕う甘い物言いも、寵を得ようと媚びを売る声も。
娘の言葉はどれでもなく、“人”が、“人“に歩み寄ろうとする、柔らかな率直さを、孟徳に伝えた。
一瞬、形も思い出せない、感触も遠くなった脆い感情がよみがえる。
それは本当に一瞬で、すぐに消え失せた。
代わりに、「恋」が、確かな姿を成して残った。
離したくない。自分のものにしたい。ずっとそばにいてほしい。
孟徳は人を信じることはしない。
そういう魔法にかかっている。
手を握り胸をときめかせ、あたたかな風をくれた花のことも、やはり信じてはいなかった。
彼女もまた、孟徳が惜しみなく浴びせる好意の言葉を、信じてはいなかった。
手に入るなら、それで良かった。
小鳥が飛び去ってしまわないように。手の中から出て行かないように。
そのことばかりが、孟徳の頭を占めていた。
思いつくかぎり甘やかし、勘づかれない程度に囲いを増やした。
望みを叶え、かりそめの自由を贈り、優しい言葉をかけて、決して無理強いせず、押して、引いて、できる限りの手段を使った。
曹孟徳ともなれば、何でもできた。
並みの男が束になってかかってもできない贅沢や、優越を与えることができた。
だというのに、彼女は孟徳の腕の中に落ちてはこなかった。
追いかけっこは楽しいものだ。頭が回り、人より見えるものが多いだけに、なかなか思い通りにならずあれこれと振り回されるのは、張り合いがあって好ましい。
孟徳も最初ははしゃいでいた。
物珍しさで愛でていた感情は通りすぎ、彼女の一挙手一投足に目を細めていた。
経験のない若造とは違う。とうに孟徳は気づいていたし、わかっていた。この恋は、一過性ではない。もう、この子は特別だと、二度と手に入らない唯一の相手だと、聡い孟徳は知っていた。
笑ってくれると自分の顔も笑う形になる。孟徳さんと呼ばれれば、特に感慨もなかった自分の名の価値が跳ねあがる。丞相の地位を得てからずっと悩まされている頭痛すら、彼女の体温で和らぐ気がした。
遥か遠くに置き去りにしてきた感傷を、思い出す夜が増えていく。
まっすぐに自分を見つめる両目を記憶でなぞって、くすぐったい心持ちで瞼を閉じる。
眠りに落ちる時、宝物を抱きしめるように唱えた。
あの子さえいればいい。
だからこそ、孟徳は恐れた。
不思議な書物によって、いつでも煙のように姿をくらませられる。
この世に果てはない。大地は連なり、長江を下ればどこだって行ける。
しかし、繋がりの断たれた、どこにもない世界では、迎えに行くことすらできない。二度と会えない。
追いかけっこは、最後につかまえるからこそ楽しく追える。逃げられて終わるのは御免だ。
どこの誰にも、どの男にも、どの世界にも、彼女をくれてやるわけにはいかない。
孟徳の手を握ってくれた彼女は、たった一人しかいない。
例え相手が世の理であっても、分け合う気はなかった。
あれほど頼りないのに、花は自力で立つことをやめない。企みには向いていないのに、考えることをやめない。危なっかしいのに、歩くことをやめない。
孟徳が手を貸し、囁いても、お礼を告げて、首を振るばかり。全てを委ねてはくれない。
孟徳はその知恵のついた、よく回る頭で考えただろう。
逃げる気がなくなるくらい甘やかして手足を溶かしてしまおうか。逃げられないように贅をつくした牢をつくろうか。逃げてもつかまえられるように見張りを倍に増やそうか。
孟徳には魔法がかかっている。
悪い魔法使いがかけた悪い魔法。
この娘さえいれば他にはいらないと思うほどなのに、娘が逃げていく未来ばかりを想像する。娘を縛り付ける方法ばかりを考える。
離した手を握りしめてくれる光景を思い描けない。
彼女が何を幸せと思うか、それさえも想像できない。
悪い魔法は、ただ囁く。
もう二度と奪われてなるものか、もう二度と背かれてなるものか。
奪われるくらいならばいっそ――
ままならぬ恋は、余裕を失わせるばかりか、暗い願望も連れてくる。
孟徳の願望は、不幸な形で現実になった。
鼻をつく、焦げた匂い。
焼けた書物を前に自失する姿は、いつかの裏切りに身を焼いた自分と重なった。痛ましい姿に、憐れみと安堵の両方が孟徳の胸に去来した。
弱っている時が、最もつけこみ、たぶらかしやすい。
傷心に毛布をかけるように、ひどく優しく、人でなしの心を隠して、寄る辺ない娘を抱きしめた。
書物は焼けた。鳥は羽を失った。
いつか鳥は、たくさんのおとぎ話を孟徳に聞かせた。
さまざまな物語があったけれど、教訓はほぼ同じ。
悪い行いをする者は、報いを受ける。
憎まれ恨まれ、踏みにじって切り捨てて、人の弱みにつけこんでたぶらかす。
おとぎ話に自分が出るなら、きっと報いを受ける側だろう。孟徳は自覚しながら聞いていた。
自他ともに認める乱世の悪役だ。
己を疎ましく感じているものは吐いて捨てるほどいる。首を狙う者も、心当たりは数えきれない。
血生臭いことは山ほどしてきた。いずれも背景と事情があってのことだが、いくらでも悪しざまに罵られる行いには違いない。よくない噂には、事欠かない。
分け隔てなく人の話に耳を傾けるのは花の美点だ。同時に、危うい弱点でもある。
鼠にそそのかされ、彼女は素直に孟徳を疑い、問いただした。
放火、徐州での殺戮。
声色は低く、静かな表情で孟徳は答えた。
ただ冷淡に事実を並べ、自分を擁護せず、否定もせず。
見上げる瞳が、猜疑に染まる。
やはり彼女は正直者だと孟徳を顔に出さずに笑った。
孟徳を信じきれない思いが、目の色にありありと現れている。
孟徳は、最初に約束をした。
君に嘘はつかない。
嘘を見抜く代わりに、嘘をつかない。孟徳なりの、せめてもの正義だった。
花に出会ってから、軽い重いの差はあれど、孟徳は一度として偽りを口にしていなかった。差し出したのは、全部が真だ。
君が好きだよ。
事実なのに、事実として伝わらない。
孟徳の言葉は、彼女の「本当」に届かない。
疑いを拭い去ることができず、戸惑いと混乱に揺れる娘を、ぼんやり日暮れのように孟徳は見つめた。
彼女は孟徳を信じたくて、すがるように尋ねたのだろう。
孟徳は知っていた。
よく知っていたけれど、期待に応えてやることなく、悪行を語った。
どうとでもとれるように言った。わざと悪辣に響くように目の前に並べた。
彼女は孟徳を試し、孟徳もまた、彼女を試した。
二人は、薄い硝子を互いに叩きあっていただろう。
望む音をどうか奏でて欲しいと懸命に。どちらも叩くことに夢中で、相手の音が聞こえない。これ以上強く打てば、きっと割れて砕けてしまう。
『どうして信じてくれないんですか』
娘は激しい熱と嘆きを目に宿し、孟徳を糾弾した。
駆け引きと打算と圧倒的な力で、彼は今の地位を築いてきた。
欲しい相手を離れないように囲い込むことはできる。畏怖で支配し操ることもできる。
されど、信頼で結びつけ、愛を乞うたことはない。籠から逃がして、戻ってくる羽音を待ったこともない。
孟徳は、信じるという行為そのものを忘れてしまった。
あの日、魔法の代償として差し出した「希望」は、娘の姿をして孟徳の前に現れたのに、つかまえるすべが見当たらない。
孟徳は願った。
自身に魔法をかけてから、恐らく初めて願った。
声なき悲鳴に千切られながら、切に願った。
信じてほしい。
孟徳自身の言葉がどうあれ、孟徳を語る他者の言葉がどうあれ、惑わされずに信じてほしい。
君を裏切らない。君には一度だって嘘を言わない。君をあざむいたりしない。
願うたび、火傷が孟徳を呪って脈を打つ。
あの日を忘れるなと悪い魔法使いが耳元で囁く。
かつて、自分の死後すらも託そうとした友は、孟徳に凶刃を向けた。
信を預ければ預けるほど重みは増し、地盤は脆くなり、落下した時の損傷が激しい。
最初から体重をかけていなければ、心を傾けていなければ、落ちることを想定して身構えていたなら、怪我をすることはない。傷つくことはない。痛むことはない。
そう、もう二度と――
もう二度と欺かれない為に魔法をかけた。
もう二度と同じ轍を踏まない為に魔法をかけた。
もう二度と奪われない為に魔法をかけた。
悪い魔法使いは報いを受ける。
嘘を見抜けるがゆえに、闇の中で語られた娘の嘘はえぐるように男を傷つけた。
嘘が見抜けるくせに、薬をあおって刃を受けた娘の真意さえ男は読めなかった。
長江を赤く染めるほど死体の山を築いてきた男は、これまでで最もおぞましく流れる血を目にした。
もう二度と奪われない為にかけた魔法は、孟徳から娘を奪い去ろうとした。
孟徳の覇道を助け、孟徳を孤独にした魔法は血肉となり、もはや孟徳自身。
体の一部を取り除こうとすれば、ひどい痛みを伴う。身を裂かれるような悲鳴がこだまするだろう。
何かを得る時も、何かを終わりにする時も、対価は要求される。
孟徳が食らうべき痛みは、孟徳ではなく、孟徳が愛した娘が請け負った。
孟徳がためこんだ毒のような悪意や殺意を、孟徳の希望そのものの娘がその身に受けた。
それは孟徳にとって、最もむごい仕打ちだったろう。
おとぎ話は正しい。やはり悪役は成敗され、悪い魔法使いは痛い目に遭わされる。
手のひらに刻まれた火傷の痕は、脈打っても、呪いをもう吐かない。
代わりに、捨てて失くした感情の欠片が、ぎこちない音を奏でて、孟徳に教えた。
ごめん、ごめんと疼く。
いとしい、いとしいと痛む。
悪い魔法使いは、恐らくずっと待っていた。
自分自身でも気づかない底の底で、恐らくは待っていた。
自分でかけた魔法に食い破られ、かつてみずみずしく見えていた景色が遠く色あせてゆく日々から、救い出してくれる何かを。
ほどく糸口さえみえないがんじがらめの魔法を、といてくれる誰かを。
いつか、川から桃が流れてくる、と彼女は困りながら話してくれた。
眠ったままの小さな手を握り締めて、孟徳は思う。
川から流れてきたのは、可愛い魔法使いだったよ、と。
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