地を這う者に翼はいらぬ/仲穎

※SSなんだかなんなんだかよくわからない仲穎→巴(中盤まで)




骸の行進はいつか終わる。




夜は長いか短いか。

日が没するのも日が昇るのも、人の営みには無関係だ。季節の巡りと同じように、平等に夜が明ける。やんごとなき身分にも、いやしき者にも。

しかし男の夜は長かった。格別に長く、空に星はなく、常によりそう影のように世すべてを塗りつぶしていた。

朝は来ない。

人々が当たり前のように迎える、千をこえる朝は来ない。長い夜に身を置いた男に、もう朝は来ない。

いや、あと一度。

男が迎える朝は、あともう一度。

長い夜が潰えて、次に朝がくるならば、男の望みが叶うとき。

それがきっと最後になる。


威光を失った王朝は、枝にぶらさがる林檎のように、風がふけば頼りなく揺れる。

かつて誇っていた瑞々しさもなく、落ちるのを待つばかりだ。

腐りかけていても、果実の蜜は甘いのだろう。

香りに誘われ、手を伸ばそうとする輩は後を絶たない。

旨味をすすろうとする者、権力の恩恵にあずかろうとする者、野望と志を取り違えている者。

よだれを垂らして、野良犬どもは木の下に集う。

それらを蹴散らし出し抜いて、果実を懐に入れた男――董仲穎は、どれにも当てはまらなかった。

権力への関心も、野望も志もない。

熱も欲もない。

浴びた返り血の匂いさえない。

空洞のような眼差しで、疲弊していく国の末路を見下ろしていた。

冷えた感情に浮かぶのは、薄い薄い微笑みだけだ。

滅びの舞台は整った。

仲穎は手をかけて、ゆっくりと緞帳を上げていく。

さあ始まりだ。

終わりの始まりだ。

低い声が背中に囁く。

自分の声だというのに、見知らぬにも聞こえる、暗い喜びにひたる声だった。


仲穎様、相国様。

怯え震えた眼差しと媚びを売る声。

仲穎をとりまく光景は、宮廷に押し入った逆賊に似つかわしいものばかり。

一見、帝が住まう居らしく煌びやかに仕立てられているが、底知れぬ悪意に渦巻いている。

面と向かって、仲穎にたてつく者はない。だが、裏でどのように囁かれているかなど想像にたやすい。

敵意とさげすみ、畏怖、侮蔑。

それらが織りなす音の数々は、心地よくはないものの耳障りでもなかった。

ほかでもない仲穎自身が望み、奏でている不協和音だ。

弦をひとつ弾けば官吏がうめき、更に弾けば民が悲鳴を上げる。

丹念にととのえた舞台は、演目通りに進んでいる。

つまづくことなく、ゆるやかに、順調に――崩壊に一途をたどっている。

ひたひたと迫る滅びの足音に、震える果実の腐った香りに、仲穎は身を横たえた。

長い夜。

月も星もない。

だがそれでいい。

光などいらない。朝など捨てた。

この目があるのは、漢王朝が流す血の色を確かめるため。

この耳があるのは、漢王朝が上げる断末魔を聞き届けるため。

その為だけに、董仲穎は呼吸をしている。

その為だけに、董仲穎は心臓を動かしている。

自身に向けられた無数の恨み言は、長い夜の子守歌。

たとえ、安らかに眠れたためしはなくとも。


かつて男は頭を垂れた。

王朝に仕え、帝を敬い、職を全うした。

見返りに与えられたのは、歯を食いしばることもできぬ絶望だ。

男が慈しんだものは何もかも血に汚れた。

命あるものは全て奪われた。

尽くした忠は、無慈悲に切り裂かれた。

何もない。何もかも失った。

恨み嘆いて血を吐き、男は一度死に絶えた。

心は恨みにひしゃげ、明日へと歩むための手足をもがれ。

うずくまり、息をするだけの骸となった。

打ちひしがれた骸を、天は救わない。

手を差し伸べたのは、邪にささやく怨霊だけ。

美しいもの輝けるもの――そんなものいらぬ。

この手で引導を渡せるなら、悪しき者の手先にもなろう。暴君にもなろう。人でなしにもなろう。

死に絶えた男は力を得た。

ただの骸には足が生えた。温度も情もなく、この世を踏みつけていく足だ。

骸の背中に、天高くはばたく翼はいらない。

憎悪に委ねた男は地を這い、生きとし生けるものを根絶やしにするのがふさわしい。

希望のない夜が、さあおいでと手招きする。

剣を腰にさし、骸の足を動かした。

破滅の道を、男が歩いて行くのではない。

男が歩いた道が破滅になる。


剣を取ることで全てを捨てて、全てを得た。

破滅を宿し暴虐を尽くしても、しょせん半身は人。

人は脆くいじましい。

代償として差し出し、捨てたはずのものは、忌々しいことにいつまでも仲穎についてまわった。

人の視線が醜いと罵る。池の水面がまるで豚だと嘲り笑う。

悪逆の王となった男の罪を、繰り返し教えるように。

男が何を奪われ何を失ったか、知らしめるように。

最後の財産「美しいもの輝けるもの」すらも手放した仲穎の、かつての姿をうつす鏡はない。

否。唯一、仲穎を正しく見る鏡があった。

武に愛され、武を愛した、若き猛将。

邪心につけこまれる余地のない、直進しか知らぬ男の瞳は、剣の呪いを受けていなかった。

一も二もなく息子として迎えたが、そばに留め置くのは難しかった。

あの鏡は、日の下を駆け、思いのままに力を振るってこそ、まことをうつす。

屋根に守られ、謀が渦巻く場所に閉じ込めれば、途端に曇って輝きを失うだろう。

何もかも手放した身だ。

贅沢は言うまい。

これを僥倖として、慰めとして、破滅の日を待とう。

仲穎はそれでよしとした。


だから、もう一枚鏡が手に入るとは、夢にも思わなかった。


鏡は娘の姿をしていた。

見覚えのない衣を身に纏い、夜の草原に佇んでいた。

怯えながら仲穎を見た両目には、息子の目と同じものが映っていた。

天は骸を救わない。嘆きに耳を貸さない。

ならばこれは怨霊からの贈り物だろう。

鏡の目を持つ娘は、迷子のように途方に暮れ、名を名乗ることもない。

東から来たとしか語ろうとしない。

素性の知れぬ怪しい娘だ。

だが、仲穎にはどこで生まれ、どこで育ったか、そんなことはどうでもよかった。

何かを企んでいたとしても、どうでもよかった。

力も後ろ盾もない、簡単に囲い込んでしまえる鏡。

すでに果実の腐敗は進み、いつ木から落ちて潰れてもおかしくはない。

仲穎は運命を思った。

息子、奉先が破滅の道を助ける鏡なら、娘は破滅の夜を看取る鏡だ。

果実が潰れ、樹木ともども倒れ崩れる瞬間を、見届けにきたのだろう。

死神の手鏡か。

仲穎はどんな感情かわからぬまま笑った。

――そなたは“貂蝉”だ。

ちょうせん。

不安そうな色をたたえた鏡は、与えた名前を反復した。


手に入れた鏡に、名前を彫るようなつもりだった。


娘は風変わりだった。

東王父からきたのだろう、と冗談めかして口にしたが、あながち間違いではないかもしれない。

仲穎を見る目は怯えていた。恐れを抱き、曇ることもあった。

しかし強者に対する卑屈さや、取り入ろうとする媚びで歪むことはなかった。

弱々しくとも、虐げられてきた者の視線ではない。

単純に、目の前の得体の知れない男、に萎縮していた。

ものを知らぬ、非力な娘。

か細い体に似つかわしい、か細い心が宿っている。

閉じ込めておける分、脆い鏡だ。

真綿でくるんでやらねば、割れてしまうだろう。

弓を引く勇ましさがありながら、夜ごと望郷で枕を濡らす。

故郷が懐かしい、残してきた家族が恋しい、と手鏡は声もなく訴える。

故郷も家族も失った仲穎には、その感傷が遠く、まぶしいものに思えた。

とうになくしたはずだというのに、触れるとつかめるような気がした。

娘は柔らかな情を持っている。

娘は幼い素直さを持っている。

仲穎がこれまで歩いてきた、そしてこれから歩いて行く、亡骸の道には見当たらない。必要がない。

繁栄を踏み潰す足があればよい。

非道に迷わぬ剣があればよい。

だから、手鏡をのぞき込んで、束の間思い出せるならばそれでよい。


「貂蝉」と呼べば、娘は「はい」と応えた。

娘には名前があるだろう。

けれど仲穎の鏡でいる間、娘は「貂蝉」だった。



鏡よ鏡、この世でもっとも醜い者は誰か

それはお前だ――董仲穎。


剣を得た後、鏡という鏡が仲穎に牙を剥いた。

磨かれた大きな鏡も、細工の見事な手鏡も、穏やかな湖面や、雨上がりの水たまりさえも。

姿をうつす全てが、呪いになった。

忌まわしい。視界の端にも入れたくない。

怒りと力にまかせ、鏡を破壊し尽くした。

それでも心が安まることはない。

人の視線は、どんな鏡よりも雄弁で正直で、蔑みに満ちている。

だが目的を達成するまでは、身を隠すこともままならない。

侮蔑の視線を身に集めれば集めるほど、心は荒み、腰に差した剣は笑う。

受けた嫌悪を血で返せ、国に刃を突き立てろ。

復讐は復讐を呼ぶ。悪意は悪意と仲がいい。

国中の人間の目を、くりぬいてしまおうか。焼いた鉄で潰してしまおうか。

鏡よ鏡、この世で最も、

――初めて見た時、なんて美しい人だろうと思いました。

背をさする手は温かい。

思ったままを口にする声に嘘はない。

この鏡は、仲穎から呪いを遠ざける。

この鏡は、血の味も裏切りも知らぬ。

この鏡は、柔らかく壊れやすい。

だから庇護してやろうと思った。

今度はその理由に、心が甘えたいと思った。柔らかく壊れやすい体温に、うずもれて眠りたい。

肌から伝わる鼓動が早くなった。慌てているのだろうとわかる。

小娘らしい初心な反応に少しおかしくなった。

慰めも安らぎも、許されるのは瞬きの内。

董仲穎の目は、耳は、復讐のために存在する。

滅びの音楽は途切れることなく、破滅の道は正しく続く。


貂蝉、我が鏡よ。

いっときだけ、ほんのいっときだけでいい。


この世の終わりの夢を見る。

人はそれを悪夢と呼ぶに違いない。

仲穎にとっては、願いが実を結んだ、望ましい夢にほかならない。

玉座は砕け、宮廷は火にのまれ、君臨していた全てが腐り堕ちる。

待ち望んだその瞬間、自分は笑うのだろうか。

口をゆがめて天を呪って、高笑いを響かせるのだろうか。

夢で幾度も滅びた、帝の玉座は、もはや男の手の中だ。

座ったところで無味無臭。感慨も高揚もない。

国は滅ぶ。

おそらく、手を下さずともいずれ滅ぶ。

だが全てをなげうった骸は、引き返すすべを知らない。

歩き始めた足は、終末の地を踏むまで止まることはない。

仲穎は身を起こし、闇の中で夢を反芻する。

思いをはせるのは、滅びの時ではない。

復讐を為し、自分とこの国が潰えた、その後を思い描く。

腐った果実が地に落ちて、この世のすべてが終わったら。

仲穎の口元がゆるやかに弧を描く。

あの勇猛な鏡は、荒廃した世界でも、きっと強く生きていけるだろう。乱世で覇を競うこともできるだろう。

仲穎の瞼が頼りなく下ろされる。

あの鏡は――あの娘はどう生きていくだろうか。相国という庇護を失い、後ろ盾もなく、どう守ってやればいいだろうか。

懐に入れた鏡はぬくぬくとあたたかく、手放すのは惜しい。

けれど、棺に入れることはかなわない

ヒビ一つ入らぬ鏡は、黄泉の国の門はくぐれまい。

美しいもの輝けるもの。

生者の世界に生きる者。死者の行進に加わらぬ者。

血濡れた道に、足跡はひとつ。

道連れは王朝だけでいい。

長い夜の拾いものは、いつかやってくる夜の終わりに返してやろう。


貂蝉、そなたは若く美しい。

貂蝉、そなたは弱く優しい。

天もきっと翼を授けよう。

その翼で東王父の国にも帰れよう。

だから、この身が骸に帰るまで。

どうか、それまでは。


Broken radio

三国恋戦記への中身のない語りをたれ流す壊れたラジオ。期間限定。

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